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宮崎県日南市にある飫肥(おび)城下町。「九州の小京都」と呼ばれるこの地は、1977年に九州で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、現在では年間約5万人が訪れる観光地となっています。
しかし、この姿に至るまでには、過疎化という厳しい現実と向き合いながら、行政と住民が一体となって取り組んだ50年以上にわたる挑戦がありました。
本記事では、飫肥城下町がどのようにして町おこしに成功したのか、その取り組みと成功要因を紹介します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 宮崎県日南市 |
| 日南市人口 | 約4.9万人 |
| 保存地区面積 | 約19.8ヘクタール |
| 城下町全体面積 | 約100ヘクタール |
| 伝建地区選定 | 1977年(九州初) |
| 日南市公式サイト | https://www.city.nichinan.lg.jp/ |
| 飫肥城下町保存会 | https://obijyo.com/ |
飫肥がなぜ町おこしに取り組むことになったのか。その背景には、長い歴史と、高度経済成長期以降の厳しい現実がありました。
飫肥は、1588年から明治初期までの約280年間、伊東氏5万1千石の城下町として栄えました。初代藩主・伊東祐兵は豊臣秀吉の九州征伐の功績により飫肥城を賜り、以後14代にわたり伊東家がこの地を治めました。
城下町は酒谷川に三方を囲まれた地形に、平安京を模した碁盤の目状の地割で整備されました。飫肥城に近い方から上級家臣、中級家臣、町家、下級家臣と身分別に屋敷が配置され、武家屋敷は飫肥石や玉石の石垣の上にお茶などの生垣で囲まれていました。
しかし、昭和30年代からの高度経済成長期以降、日南市も多くの地方都市と同様に人口流出による過疎化が進みました。
かつて南那珂郡の政治・経済の中心地として栄えた飫肥も例外ではなく、商店街は賑わいを失いつつありました。
そうした中でも、飫肥城を中心とした武家屋敷群、飫肥石の石垣と門、伝統的な住宅からなる町並みは、かろうじて往時の姿を留めていました。この残された歴史的資産をどう活かすか。それが飫肥の町おこしの出発点となりました。
過疎化という危機に対し、飫肥はどう動いたのか。そこには、行政と市民が足並みを揃えた、地道で情熱的な取り組みがありました。
1974年(昭和49年)、当選したばかりの市長が市をあげての町おこしとして「飫肥城復元事業」を打ち出しました。
しかし、自主財源がありません。そこで「飫肥城復興促進協力会」を発足させ、全市をあげての募金活動を推進しました。同時に市議会では「文化財保存都市宣言」を決議。高山市、倉敷市、南木曽町など町並み保存の先進自治体とともに「町並み保存に関する要望書」を国に提出するなど、「古い町並みを生かした町おこし戦略」を明確に打ち出しました。
翌1975年、国は文化財保護法を改正し、伝統的な町並みに対して「重要伝統的建造物群保存地区」の選定ができるようにしました。いわば「町並みの重要文化財」ともいえる制度の創設です。
日南市はすぐに飫肥城下町の伝統的建造物群保存対策調査を実施。1976年には「日南市伝統的建造物群保存地区保存条例」を制定し、1977年5月、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
選定理由は「地方における小規模な城下町の典型的なものとして侍屋敷の歴史的風致をよくあらわし、我が国にとってもその価値は高い」というものでした。
復元事業は段階的に進められました。
1976年、飫肥藩の藩校であった振徳堂が市民の募金により修復されました。振徳堂は1831年に藩主・伊東祐相が建てた藩校で、明治の外交官・小村寿太郎や小倉処平など、多くの人材を輩出した場所です。
1978年には大手門の復元と飫肥城歴史資料館が完成しました。大手門の復元にあたっては、当時の城郭研究の第一人者であった藤岡通夫博士が設計・監修を担当。飫肥営林署から提供された樹齢100年以上の飫肥杉4本を使い、釘を1本も使わない昔ながらの工法で建造されました。高さ12.3メートルの木造渡櫓二階建ての堂々たる門です。
歴史資料館には、城下町の武家屋敷に大切に保管されていた刀剣、甲冑、調度品、掛け軸などが寄託資料として数多く寄せられました。
1979年には松尾の丸が完成。江戸時代初期の書院造りの御殿を時代考証のうえ建築したもので、国宝・西本願寺飛雲閣を模した湯殿など、当時の大名の暮らしを体感できる施設となりました。
これらの復元事業は、市民や市出身者、有志からの募金が大きな支えとなりました。「市民総参加でつくりあげた」という意識が、飫肥の人々の誇りとなっていきました。
行政主導の飫肥城復元事業と並行して、住民主導の取り組みも進められました。その象徴が本町通り商店街の動きです。

飫肥城下町の商人町として400年以上の歴史を持つ本町通り商店街。過疎化で賑わいを失いつつあったところへ、追い討ちをかけるように国道222号のバイパス計画が発表されました。
バイパスが完成すれば、通過する車は商店街を素通りしてしまいます。商店街にとっては死活問題です。1970年、商店街は「本町通り拡幅期成会」を結成し、県や国に粘り強く陳情を続けました。その結果、1973年にはバイパス計画を現道拡幅に変更させることに成功しました。
しかし、拡幅工事が始まり、白壁造りの商家が次々と取り壊されていく中で、商店街の人々は失われるものの価値に気づきました。
1978年、「本町通り町並み研究会」を結成。全国の先進地を視察し、資料を収集した結果、行政の手を借りずに自主的な申し合わせを決めました。
この5つのルールにより、道路拡幅後も城下町にふさわしい和風の商店街が住民の力で完成しました。

バイパス計画を拡幅に変更させたこと、新しい商店街を自分たちの調査研究と自主的な申し合わせでつくりあげたこと。この二つの成功体験は、本町通りの人々の大きな自信となりました。
行政もこの動きに呼応し、1983年に商家資料館を建設。明治3年に山林地主が建てた白漆喰壁の土蔵造りの建物を、道路拡幅を機に所有者から寄贈を受けて移転修復したものです。
伝建地区選定後も、景観整備は継続的に行われました。
1982年には、かつての水郷飫肥を復活させるため道路側水路に鯉を放流。大手・横通りでは電柱を移転し、街灯を設置しました。

1989年には宮崎県日南警察署が道路標識を大幅に減少させるとともに小型化。周辺河川の災害復旧工事でも城下町のイメージを意識した修景が行われました。
城下町の南を通過する市道については、本来ならオープンカットで済むところを、城下町の自然景観を維持するためにあえてトンネル工法が採用されました。現在も電線地中化工事が徐々に進んでいます。
1993年には、再び市民の募金によ国際交流センター小村記念館が建設されました。飫肥出身の外交官・小村寿太郎の没後80年を記念したもので、2022年にリニューアルオープンしています。
50年にわたる取り組みは、確かな成果をもたらしました。飫肥城下町は今、多くの人々を惹きつける観光地へと成長しています。
1978年、歴史資料館の完成を記念して「飫肥城下まつり」が始まりました。
毎年10月に2日間にわたって開催されるこの祭りでは、侍大将や女武者姿の時代絵巻パレード、県指定民俗無形文化財の泰平踊りなどが披露されます。現在では2日間で約5万人の来場者を集める、日南の秋の風物詩となっています。
2009年、新たな観光施策として「食べあるき・町あるき」事業が始まりました。
日南商工会議所の担当者が岐阜県郡上八幡の類似事業を視察し、飫肥城下町保存会と協力して立ち上げたものです。視察からわずか3ヶ月で16店舗が参加してスタートしました。
「あゆみちゃんマップ」と呼ばれるこの事業は、5枚の商品引換券で城下町を巡りながら、おび天や厚焼き玉子などの地元グルメを楽しめるというもの。2025年1月には利用者が35万人を突破し、参加店舗も29店舗に拡大しました。



保存会の担当者は「まちを歩いてもらうことで由緒施設や商店街の活性化につながる。商店主とお客さんの間で会話が生まれ、まちの活性化につながっている」と語ります。

飫肥では、行政や保存会だけでなく、市民による活動も活発です。
城内コンサートを開催する「飫肥楽市楽座」、キャンドルナイトを企画する「飫肥にあかりを灯す会」、人力車を運行する「祐兵クラブ」、ひな祭りイベントを行う「おびまゆの会」、花飾りを手がける「小京都の会」など、各団体がさまざまな活動を展開しています。
中でも「日南市観光ガイドボランティアの会」は、無料で観光ガイドを行い、飫肥観光の重要な柱となっています。
こうした行政・民間一体となった取り組みは、外部からも高い評価を受けています。
なぜ飫肥は成功したのか。他の地域が参考にできるポイントを整理します。
飫肥城復元事業、伝建地区選定、本町通り拡幅事業という三つの大事業を、行政・議会・住民が一体となって同時期に推進しました。行政主導の動きと住民主導の動きが相互に呼応し、まち全体のうねりとなりました。
復元事業の資金の多くを市民募金で賄いました。さらに歴史資料館には刀剣や甲冑などの寄託資料が多数寄せられました。「自分たちでつくりあげた」という意識が、市民の誇りと当事者意識を育てました。
本町通り商店街は、行政の手を借りずに自ら町並みルールを策定しました。バイパス計画を拡幅に変更させた交渉力、失われるものの価値に気づいて自ら調査研究を行った行動力。この主体性が成功の鍵となりました。
樹齢100年以上の飫肥杉を大手門の建材に、飫肥石の石垣を景観資源として保存。おび天や厚焼き玉子といった地元食文化を「食べあるき」事業に活用。小村寿太郎や泰平踊りなど、歴史・文化資源も観光コンテンツとして活かしました。
1974年から現在まで50年以上にわたり、取り組みが継続されています。振徳堂、大手門、歴史資料館、松尾の丸と段階的に整備を進め、課題が出るたびに研究会を発足させて対応してきました。
飫肥城下町保存会がマップ販売・管理、商工会議所が統一のぼり旗制作、参加店舗は年会費で継続参加という形で、官民の役割分担が明確になっています。
飫肥城復元事業を発案した市長、本町通り町並み研究会のメンバー、食べあるき事業を立ち上げた商工会議所と保存会の担当者。各段階でキーパーソンが存在し、周囲を巻き込んでいきました。
成功を収めた飫肥ですが、課題も残されています。
飫肥地区住民の高齢化率は40%を超え、空き家・空き地が増加しています。世代交替に伴う屋敷地の細分化も進んでいます。
また、重要伝統的建造物群保存地区の面積は約19.8ヘクタールですが、これは城下町全体の約100ヘクタールのうち約20%に過ぎません。保存地区外の景観保全をどう進めるかも大きな課題です。
飫肥が目指すのは「点と点を面にする地域連動型のまちづくり」だといいます。古い建物の単なるリノベーションではなく、継承と集客を両立できる仕組みをつくること。次の50年に向けた挑戦が続いています。

飫肥城下町の町おこしは、過疎化に直面した地方の城下町が、歴史的資産を活かして観光地として再生した成功事例です。
その成功の背景には、行政と住民が一体となった取り組み、市民参加型の資金調達、住民の自主的な行動、地域資源の活用、50年以上にわたる継続的な努力がありました。
特に注目すべきは、行政主導の事業と住民主導の事業が同時期に進められ、相互に呼応しながらまち全体の機運を高めていった点です。
地方創生や町おこしに取り組む方々にとって、飫肥の50年の歩みが、次の町おこしの一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。
地域の未来を切り拓こうとするすべての方々に、飫肥の挑戦が力となることを願っています。
