
- 【96枚の写真】で見る川越城本丸御殿内部|徳川家康・家光も滞在した東日本唯一の現存建築
- 日本に2つだけの現存本丸御殿、川越城を96枚の写真で完全案内。徳川家康・家光も宿泊した玄関から広間まで全部屋を詳細レポート。入館料100円、所要時間40分の見学情報も掲載。
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川越城といえば、本丸御殿。日本に現存する本丸御殿はわずか二つしかなく、東日本では唯一となるこの建物は、川越観光のハイライトです。
しかし実は、その本丸御殿のまわりには、門跡・堀跡・石碑など、川越城の面影を今に伝える史跡が数多く点在しています。
この記事では、本丸御殿から徒歩で辿れる川越城ゆかりの史跡や遺構を厳選してご紹介。それぞれの歴史的背景や見どころをわかりやすく解説します。
あわせて、史跡を効率よく巡れるおすすめの観光ルートも掲載。歴史ファンはもちろん、はじめての川越観光でも楽しめる内容です。
川越城の全体像をつかみながら、現地での観光がもっと深く、もっと楽しくなる背景情報と視点をお届けします。
まずは全体感を把握しておきましょう。川越城に関する主な史跡や遺構のスポットを、以下のマップにまとめました。御殿や門跡、堀跡、石碑など、かつての城域を偲ばせる痕跡が、今も川越市内に点在しています。
本丸御殿を中心に、徒歩で巡れる範囲にこれだけの史跡が残っていることから、川越城の規模の大きさと歴史の深さが見えてきます。
それではここからは、この地図に示した各スポットについて、歴史的背景や見どころを詳しくご紹介していきます。
川越城を訪れるうえで見逃せないのが「本丸御殿」です。現存する本丸御殿は全国にわずか2か所しかなく、そのうちのひとつがここ川越にあります(もう一方は高知城)。特に東日本では唯一となる貴重な建築であり、川越城を象徴する最大の見どころです。
本丸御殿のすぐ脇には「本丸門跡」があります。
ここはかつての本丸北門が存在した場所です。かつて本丸とニノ丸を隔てるかたちで堀と土塁が築かれ、その出入口として北門が設けられていました。
発掘調査によって門の跡とともに土塁の痕跡も確認されています。跡地からは大型の柱跡が3基見つかっており、これらは「本城住居絵図」(光西寺蔵)に描かれた北門の位置と一致することから、北門の遺構と考えられています。
本丸御殿と、道路(初雁城通り)を挟んだ先にあるのが、川越市立博物館です。
川越市立博物館では、川越城をはじめとした川越地域の豊かな歴史を、原始〜近現代にわたって幅広く展示しています。
本丸御殿や城跡に関する展示や、甲冑・武具など武士文化に関する資料が展示されています。本丸御殿や城跡をより深く理解したい方にとって、市立博物館は解説と補完の場として最適です。
また、川越市立博物館が建っている場所は、川越城の二の丸跡に当たります。
区分 | 料金 |
---|---|
一般 | 200円 |
大学生・高校生 | 100円 |
中学生以下 | 無料 |
霧吹きの井戸は、川越市立博物館の敷地内にある井戸跡です。
川越城には「霧吹きの井戸」と呼ばれる不思議な井戸があったと伝えられています。普段はふたで閉ざされていたこの井戸ですが、いざ敵が攻めてきたときにはふたを外すと中から霧が立ちのぼり、瞬く間に城全体を包み隠してしまったといわれています。
この霧の伝説にちなみ、川越城は「霧隠城(きりがくれじょう)」とも呼ばれることがありました。実在の城にまつわるこうした逸話も、訪問者の興味をひく魅力のひとつです。
川越市立博物館の敷地内、駐車場の奥まった場所に「蓮池門跡」の石碑が静かに建てられています。かつてここには、川越城の一角を守る門のひとつ「蓮池門」が存在していました。
現在では目立つ遺構は残っていませんが、城の構えを知る手がかりとして、その存在を静かに伝え続けています。本丸御殿や博物館を訪れた際には、あわせて立ち寄ってみるのもおすすめです。
本丸御殿から初雁城通りを川越市役所方面に約 6 分歩いたところには、中ノ門堀跡があります。
「中ノ門堀」は、川越城の西側から敵が侵入してきた場合に備えて築かれた防御施設のひとつです。西大手門(現在の川越市役所方面)から本丸(川越市立博物館方面)へと攻め込む敵を、3 本の堀で迎え撃つ構造となっており、その中心にあったのがこの中ノ門堀です。
ここでは、堀を越えようとする敵の進軍速度が落ちたところで、城兵が弓矢や鉄砲で迎撃するという仕組みが取られていました。発掘調査では、堀の法面(のりめん)の傾斜角度が内外で異なっていたことも確認されており、当初の堀は深さ 7m、幅18m。内側(東側)は約60度と急勾配で、外側(西側)は約35度。城内からの防衛を意識した、極めて実戦的な構造でした。
明治以降、多くの建物や施設が姿を消していく中で、この中ノ門堀跡は川越城内に唯一残された堀として貴重な存在となりました。市民の間から保存を望む声が高まり、川越市では2008年〜2009年にかけて整備工事が行われました。現在では、当時の防御構造の工夫を今に伝える歴史遺産として公開されています。
中ノ門堀跡は民家と隣接しているため、静かに味わいましょう。また、休憩スペースもありベンチで休憩もできます。
かつて川越城の正門にあたる「大手門」が設けられていた場所は、現在の川越市役所前交差点付近にあたります。市役所の正面入口の近くに、往時を偲ばせる石碑が静かに建てられています。
ここは、敵が正面から攻め込んできた際の主要な出入口でもあり、城の正面玄関として重要な役割を果たしていました。現在では石碑のみで遺構は残されていませんが、川越城の構造を知る上で見逃せない場所のひとつです。
川越城本丸御殿のすぐ隣に鎮座するのが、日本の有名なわらべ唄「とおりゃんせ」の歌でも知られる三芳野神社です。この神社の境内には、川越城にまつわる奇妙な伝承や逸話をまとめた「川越城七不思議」が掲示されています。
この七不思議は、城にまつわる不可思議な現象や言い伝えを集めたもので、霧吹きの井戸や姿を消す堀、音のしない畳など、興味深い内容ばかり。文献にも残されており、伝承と歴史の狭間にあるロマンを感じさせます。
1.霧吹き(きりぶき)の井戸
城中に苔むした大きな井戸があり、ふだんは蓋をしていたが、万一敵が攻めてきたときに蓋を取ると、霧がもうもうと立ち込め、城全体を包み隠してしまったという。この伝説から、川越城は「霧隠城(きりがくれじょう)」とも呼ばれていた。
2.初雁(はつかり)の杉
三芳野神社の裏手にそびえる杉の老木の上空には、毎年雁が渡る季節になると、三声鳴いて三度回り、南へ飛び去るという言い伝えがある。この不思議にちなみ、川越城は「初雁城」とも称された。
3.片葉の葦
浮島稲荷社の裏手一帯には「七ツ釜」と呼ばれる湿地帯があり、そこに生える葦はすべて片葉だったという。川越城落城の際、逃げる姫が葦にすがろうとして力尽き水中に沈んだ悲話により、姫の無念がこの片葉の葦に宿ったとされている。
4.天神洗足の井水(みたらしのせいずい)
川越城築城の際、水源に困っていた太田道灌が、井水で足を洗う老人に導かれて良質な湧水を発見したという。その老人は三芳野天神の化身であったとされ、この井水は「天神洗足の井水」と名付けられ、神聖視された。
5.人身御供(ひとみごくう)
川越城築城が思うように進まない中、龍神が太田道真の夢に現れ「最初に訪れる者を人柱に」と告げた。翌朝最初に来たのは最愛の娘・世稲姫。道真はためらうが、姫は城の完成を願い自ら七ツ釜に身を投じた。以後、築城は順調に進んだという。
6.遊女川(よなかわ)の小石供養
若侍と結ばれた娘・およねは、姑のいじめに遭い離縁されてしまう。再会を願い続けたが叶わず、出会った川辺で命を絶った。それ以来その川は「よな川」と呼ばれ、夜な夜な泣く声が聞こえるとも伝えられている。
7.城中蹄(ひづめ)の音
川越城主・酒井重忠は、夜な夜な矢叫びや蹄の音に悩まされた。占いによって原因は戦の屏風絵と判明し、片方を養寿院へ寄進すると怪音は止んだとされる。城内に残された戦の記憶が騒ぎを起こしていたのかもしれない。
川越城の藩政時代、藩士の子弟を教育するために設けられた藩校「明信館(めいしんかん)」がありました。その跡地が、現在の川越市立川越高校の敷地内にあたります。
明信館は文政4年(1821年)に開設され、儒学を中心に武士の教養や礼法、兵法などを教授していたと伝えられています。川越藩の学問と人材育成を担った重要な施設であり、地域の教育史においても意義深い存在です。
現在は、川越小学校の正面、歩道沿いに石碑が設けられており、誰でも自由に見学できます。川越城の城郭や政治機構だけでなく、学びの場としての側面にも触れられる貴重な史跡です。
川越城の南側には「南大手門」と呼ばれる出入口が設けられていました。その跡地は、現在の川越市立川越第一小学校の敷地内にあたります。校内には、かつての門の存在を示す石碑が静かに建てられています。
この門は、城下町の南部と本丸を結ぶ重要な通路として機能していたとされ、城の構造や交通の流れを知る上で欠かせない地点です。残念ながら遺構は残っていませんが、石碑が歴史の面影を今に伝えています。
小学校敷地内ですので関係者立入禁止ですが、入り口のすぐ脇に石碑があるため、立ち入らなくても敷地外から石碑を見ることができます。
かつて川越市内には、「川越歴史博物館」という私設の歴史資料館がありました。川越城や武士、忍者に関する展示が充実しており、歴史ファンに親しまれてきましたが、現在は閉業しています。
情報が古いまま残っているWebページや旅行記事もあるため、訪問を検討されている方はご注意ください。
喜多院の本堂(慈恵堂)裏手に、川越藩主を努めた松平大和守家の墓所「松平大和守家廟所(まつだいらやまとのかみけびょうしょ)」があります。
江戸時代後期、川越城主を務めたのが松平大和守家(まつだいらやまとのかみけ)です。この家系は、徳川家康の次男・結城秀康の五男である松平直基(なおもと)を初代とする徳川一門「御家門」に属しており、名門・結城家を相続したことから結城松平家とも呼ばれます。さらに、越前松平家の一門でもあり、代々「大和守」を名乗りました。
現在、松平家歴代藩主の墓所は喜多院の境内にあり、川越城の歴史を知る上でも重要な史跡となっています。
この墓所の整備は、5代藩主・朝矩が没した 1768 年から、川越藩が前橋へ転封された 1866 年まで、約 100 年にわたって行われました。
中でも間知石(けんちいし)を積み上げた基壇や石柵(玉垣)、五輪塔を含む廟所全体の構成は、近世大名墓としての完成形とも言えるもので、埼玉県内に現存する中でも特に保存状態の良い貴重な例です。
ここまで、川越城に関する史跡を紹介してきました。これらのスポットを効率よく巡れるおすすめの観光コースをご紹介します。
私がおすすめするのは、川越駅からバスで本丸御殿へ移動し、そこから関連史跡を徒歩で巡るコースです。以下のルートで散策すると効率よく巡れます。
地図中の番号に沿って順にめぐることで、徒歩でも無理なく充実した川越城散策が楽しめます。全て巡る場合の所要時間は 3.5 〜 4 時間程度。本丸御殿と川越市立博物館周辺のみ(1〜6まで)なら約 2 時間です。
本丸御殿の入口付近では、当時の川越城の敷地図を確認することができます。
各所に点在する史跡や石碑を見て回ると、川越城がかつて非常に広大な敷地を有していたことが実感できます。
このように、本丸御殿以外にも、川越城に関するさまざまな遺構や石碑が今も街中に点在しています。今回紹介した場所以外にも、櫓跡や櫓門跡といった史跡が残されており、川越のいたるところに城の記憶が息づいています。街に溶け込んだその面影を辿りながら、川越の歴史と空気をじっくり味わってみてください。