
- 川越城本丸御殿|ハート模様に多数のボール跡?!驚き満載の見どころ徹底紹介!
- 東日本唯一の現存本丸御殿・川越城本丸御殿を徹底紹介。歴史と文化を伝える見どころや意外な発見ポイントをわかりやすく解説。
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日本では、建築当時から現存している本丸御殿は 2 つしかありません。高知城の本丸御殿と、ここ、川越城の本丸御殿です。
江戸時代には、将軍が鷹狩をするときに滞在したと言われており、徳川家康は 8 回、徳川家光は 9 回、鷹狩で川越に来たと言われています。
本記事では、非常に貴重な川越城本丸御殿の内部を巡ります。
正面はシンメトリーで厳かな佇まい。玄関が大きく迫力があります。
側面は北側、徒詰所や中ノ口のある側を撮影できましたが、とてもきれいで洗練されています。
こちらは御殿の北西側、正面に対して裏側からの様子。右手に見えるのは家老詰所です。
玄関の脇には櫛形塀(くしがたべい)が見られます。
玄関は大きくてとても立派です。八寸角の太い柱が支える巨大なな唐蔵風屋根が特徴的で、開口部は間口 3 間(幅約5.45m)もあります。
ちなみに当時、この玄関を使えたのは殿様以上、つまり将軍のみ(藩主でも中ノ口から出入り)ということで、格式の高さが伺えます。
玄関を上がってすぐに受け付けがあり、大人は入館料 100 円を支払って本丸御殿へ入ります。
現在の川越城本丸御殿はこのような構成になっています。ゆっくり見て回っても 20 〜 30 分くらいの内容。
座敷をぐるりと囲む廊下にも、ぜひ注目してみてください。実は場所によって床に使われている木の種類が違います。
玄関や中ノ口のある東側は、堅くて重厚なケヤキを使用。一方で、南側から西側の広間周辺は、柔らかく温かみのあるツガやマツが使われています。
これは、格式ある公的空間と、くつろぎの私的空間とを区別するため。細部にまで工夫が凝らされた造りから、当時の武家社会の秩序や美意識が感じられます。
床はしっかりしていてきれい。これも保存に努めてくださっている方々のおかげですね。
ただ、冬は床が冷たく足が冷えるので、ゆっくり見て回りたい場合は自身でスリッパなどを持ってきた方がよいかもしれません。
静かに佇まう。そんな言葉がぴったりの雰囲気でした。
使者というのは、藩主との謁見を待つ使者のこと。使者の間はそういった人たちが待機する場所です。
欄間が結構モダンな感じですよね。襖には竹の絵。
「使番(つかいばん)」と呼ばれる役職をご存じでしょうか?使番は、もともと戦国時代に戦場で伝令や監察、さらには敵軍への使者を務めた役職です。
その役目は、江戸時代になっても続き、幕府や各地の藩でも重要な仕事とされました。川越城本丸御殿でも、使番たちが藩主の命令を伝えたり、政務を支えるために日々詰めていたのがこの使番詰所です。
「番抜」は、事実上現役を退いたようなひとのことを指します。
この部屋の襖には絵が描かれていないですね。とても質素な造りです。
「物頭」は「足軽頭」の意味。兵でも少し偉い人のこと。現代的にいえば軍曹や係長のような役割の人たちが滞在した部屋です。
ここも特に装飾はなくて、もてなしというよりはやはり使える者のための部屋だったのが伺えます。
廊下を進んだ先に中庭があります。
川越城本丸御殿の南側には、かつて「大書院」と呼ばれる壮大な建物が建っていました。
残念ながら、書院は明治時代の初めに解体され、今はその姿を見ることはできません。
しかし、本丸御殿の南端の柱には、かつての書院の建材が使われていた痕跡、「ホゾ穴」が今も残されています。当時の面影を探しながら、じっくり眺めてみるのもおすすめです。
庭はよく整備されていてきれいでした。こういう風景って落ち着きますね。
日当たりの良い廊下を進んでいきます。
中庭沿いの通路を進んでいくと、明治棟(第1展示室)があります。
本丸御殿の一角には、明治時代初期に建てられた建物がありました。それがこの明治棟です。
明治29年(1896年)に描かれた「三芳野神社境内図」にもその姿が記録されており、当時、入間県庁や入間郡公会所として使われていた本丸御殿を補う施設だったと考えられています。
さらに、平成20年度の修理工事で解体された際には、天井裏から江戸時代の「大書院」などの古い建物の部材が再利用されていることが確認されました。
歴史を感じさせるこうした古材は、できる限りそのまま保存され、傷んだ柱などは丁寧に補強されています。
ここには、本丸御殿の保存修理工事の様子が展示されていました。
川越城本丸御殿では、昭和42年(1967年)の修理から約40年が経ち、建物に雨漏りや壁のひび割れといった傷みが目立つようになっていました。
そこで、平成20年(2008年)から約2年半をかけて、保存修理工事が行われました。
この工事では、建物を一度骨組みだけの状態に解体し、傷んだ部分を補修・補強したうえで元の姿に戻す半解体修理という方法が採用されました。
修理では、文化財であることを考慮し、伝統的な技術と現代の構造補強技術の両方を取り入れています。
例えば、木材は腐ってしまった部分だけを取り除いて新しい木を埋め込み、瓦は一枚ずつ丁寧に点検して再利用可能なものを選びました。
壁に使う土も、もともと屋根に使われていた土を配合して新しく作り直すなど、できる限り元の素材を生かす工夫がなされています。
現在、本丸御殿内の展示室では、こうした保存修理工事の様子をパネルや資料で紹介しており、木造建築の魅力を間近で感じることができます。
できる限り「当時のまま」を保てるようにの配慮と、現代技術を以て修理に当たった。それを可能にする日本の建築技術はすごいと思います。
展示されているこちらの鬼瓦(おにがわら)は、今回の修理工事で交換された大棟(おおむね)南側のものです。
実は、もともと南側には「書院」が建っていたため、建築当初は鬼瓦はありませんでした。
ところが、書院が解体されたあと、新たに鬼瓦が必要になり、旧本丸御殿の別の建物で使われていた鬼瓦を移して設置したと考えられています。
鬼瓦の表面の風合いが、北側にある鬼瓦とよく似ていることが、その手がかりになっています。
そんな歴史の積み重ねを感じながら、じっくり眺めてみてください。
こちらは、建築当初の屋根下地。本丸御殿が建てられた当初、屋根の下地には土居葺(どいぶき) と呼ばれる工法が使われていました。
これは、サワラの木を薄く短冊状に切った板を、何枚も丁寧に重ねて作る、非常に手間のかかる技術です。
伝統的な木造建築ならではの細やかな職人技が、こうした見えない部分にも込められています。
さて、明治棟を出て先に進んでいきます。
江戸時代では「坊主」は「僧侶」を意味していました。つまりここは僧侶が滞在していた部屋。
現在は第 2 展示室として、資料が展示されています。
静かな時間が流れる中、ゆっくりと見て回れます。
また、坊主当番詰所・家老詰所・広間裏の廊下に囲まれた中庭も、良い雰囲気です。
家老詰所。ここは、かつて川越藩の家老たちが政務を執っていた建物です。
江戸時代、藩主は参勤交代で江戸に滞在することが多く、実際の藩政はこの家老たちが任されていました。
この建物は明治時代の初めに解体され、現在のふじみ野市にあたる場所で商家として再築されていましたが、昭和62年(1987年)に川越市に寄贈され、再びこの地に移築・復元されました。
江戸から現代へと、長い時間を超えて伝えられてきた、貴重な歴史の証です。
中庭方面の廊下に陽が差し、雰囲気がとても良いです。
家老詰所にいる人形は、黒船来航を受けてお台場の沿岸警備をどうしていくかの話し合いの様子を再現したもの。
雨戸の施錠・固定についてはこちらでくわしく解説しています。なかなかに秀逸です。
本丸御殿は多くの人が集まる場所だったため、御殿内のあちこちに便所が設けられていました。
ほとんどは建物の外に張り出すような形で作られていましたが、家老詰所のように、建物の内部に設置された例もあります。
こうした配置には、当時の生活や建築の工夫が垣間見えます。
家老詰所を出て先に進みます。終わりも近いです。
正面玄関に比べるとひとまわり小さい、中ノ口(なかのくち)と呼ばれる玄関にも注目してみてください。
幅は約2間半(約4.5メートル)で、格式を抑えたつくりになっています。
もともとは、千鳥破風(ちどりはふ) と呼ばれる華やかな屋根が載っていたと考えられていますが、現在見られる流れ屋根は、昭和42年(1967年)の修理工事で新たに設けられたものです。
また、建築当初は北側に1間分張り出していて、正面玄関と同じように階段と式台があったと推測されています。
こうした痕跡から、当時の建築様式や格式を今に伝えています。
また、ここには川越城跡の模型も展示されていました。
徒詰所(かちつめしょ)は、御殿の警護が滞在していた部屋です。
徒士(かち) とは、江戸時代に徒歩で戦うことを専門とした下級武士のことです。
馬に乗る身分の高い侍とは違い、戦場では主君の先導役を務め、平時には城内の護衛を担当していました。
徒士は武士の身分を持っており、足軽とは区別されていました。
また、行政の現場では、中間管理職のような立場で藩の運営を支えていた存在でもあります。
広間は 36 畳の広さを誇ります。御殿内で 2 番目に大きかった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋と考えられています。城主との対面は南側にあった「大書院」でおこなわれたようです。
襖には松が描かれていて、一番豪華です。
釘隠しも豪華です。
また、広間には紫裾濃威鎧(むらさきすそごおどしよろい)という甲冑が展示されています。
そしてこちらは、室内運動場として使われていたころの名残。天井にバレーボールの跡が残っています。
歴史的価値というのは、やはり時間の経過と共に理解され見直されていくものなのでしょうね。
現存している本丸御殿はここを含めて 2 箇所しかありませんが、バレーボールの跡がついているというのはなかなかにユニークです。
そして、
広間の前が玄関のためここで一周。見学終了となります。
現存している本丸御殿は川越城の本丸御殿と高知城の本丸御殿の 2 つのみ。
非常に貴重な史跡です。
また、御成御殿にふさわしく大きな玄関や広間も必見です。
ぜひご自身で歴史を体感してみてください。
(所要時間:約 40 分)