- 日本から城が消えた日〜廃城令がもたらした城郭文化の危機と奇跡の生還〜
- 明治6年、廃城令により日本各地の城郭は消えた。失われた城、奇跡的に守られた城、そして現存天守12城の物語を紐解く。
最終更新日:

日本の城を訪れると、門をくぐった先で直角に曲がらなければならない場所に出くわすことがあります。「なぜまっすぐ進めないのだろう」と思ったことはありませんか。


この構造こそが「桝形虎口」(ますがたこぐち)です。戦国時代末期に考案され、「最強の虎口」「虎口の完成形」と呼ばれる防御構造です。
この記事では、桝形虎口の構造と防御機能、そして歴史的な発展について解説します。城めぐりの際に桝形虎口を見つけると、城の設計思想をより深く理解できるようになるでしょう。
桝形虎口とは、城の出入口(虎口)に方形(四角形)の空間を設けた防御構造です。
「桝」とは、米などを計量するための四角い木製の容器のこと。この桝の形に似た四角い空間を設けることから「桝形」と呼ばれています。

桝形虎口の基本構造は以下の通りです。

敵はまず一ノ門を突破した後、桝形内で直角に方向転換し、二ノ門を攻略しなければ城内に入れません。この間、三方を囲む城壁の上から守備兵の攻撃を浴びることになります。
桝形虎口は、設置位置によって「外枡形」と「内枡形」に分類されます。
外枡形は、曲輪(くるわ)の外側に桝形が突き出す形で設置されたものです。城外から見ると、門の前に四角い空間が張り出しているのが特徴です。

内枡形は、曲輪の内側に桝形が収まる形で設置されたものです。一ノ門をくぐると、曲輪の中に桝形空間が広がっています。

城めぐりの際には、桝形が城壁の外に出ているか、内に収まっているかを観察してみてください。
桝形虎口では、一ノ門から二ノ門へ向かう際に直角に曲がる必要がありますが、この曲がる方向には「左折れ」と「右折れ」があります。

日本の城では右折れ(敵から見て右に曲がる)が多いのが特徴です。左折れの桝形虎口を持つ城は、大坂城や小田原城など少数に限られます。
桝形虎口が「最強の虎口」と呼ばれる理由は、その優れた防御機能にあります。
まっすぐ進めない構造のため、敵は必然的に速度を落とさざるを得ません。特に大軍で攻める場合、狭い門と方向転換によって隊列が乱れ、進軍に時間がかかります。
宮崎県にある飫肥城(おびじょう)では、大手門から本丸へ向かう経路に桝形虎口が設けられており、敵の進行を効果的に遅らせる設計になっています。

基本的には直角に方向転換させる構造が多いですが、飫肥城では180度の方向転換を強いる箇所もあります。完全にスピードを殺さなければ先に進めません。


このように桝形虎口の攻略には時間がかかるため、守備側は援軍の到着を待ったり、他の防御策を講じたりする余裕が生まれます。一方、攻撃側は長時間の戦闘で疲弊し、士気も低下していきます。
桝形虎口の最大の特徴は、敵を「キルゾーン」(殺傷区域)に誘い込める点です。
桝形内に入った敵は、左右と正面の三方を城壁に囲まれます。この城壁の上には弓兵や鉄砲兵が配置され、敵に向けて一斉に攻撃を浴びせることができます。方向転換で足を止めた敵は、城壁の上から狙い撃ちにされます。

桝形虎口が登場したのは戦国時代末期、桃山時代頃とされています。それ以前の虎口は単純な構造が多く、敵の侵入を効果的に阻止するには限界がありました。
1600年の関ヶ原の戦いを境に、桝形虎口は急速に発達しました。全国統一が進む中で築かれた近世城郭には、ほぼ例外なく桝形虎口が採用されています。築城の名手として知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)は、今治城をはじめとする多くの城で桝形虎口を採用し、その普及に大きく貢献しました。
桝形虎口の規模は城によって様々でしたが、権威を示すため、あるいはより強固な防御のために大規模な桝形虎口が築かれることもありました。現存する城門で最大規模といわれる江戸城外桜田門の桝形は、15間×21間(約320坪)もの広さを誇ります。現在は皇居外苑(皇居前広場)となっており、地下鉄「桜田門駅」のすぐ近くで、皇居ランナーがよく通るコースにもなっています。

日本の城は、地形を利用して防御力を高めたり、構造の工夫で敵を翻弄したりと、武器や兵力だけに頼らない独自の防御思想を持っています。桝形虎口はその象徴ともいえる存在です。
方形の空間に敵を誘い込み、三方から攻撃を浴びせるという合理的な設計は、戦国の世で磨かれた防御技術です。
城を訪れた際には、門をくぐった先の構造に注目してみてください。直角に曲がる場所があれば、それが桝形虎口です。外枡形か内枡形か、右折れか左折れか、そんなことを考えながら歩いてみるのも楽しいかもしれません。
