大手門はなぜ「追手門」と書くのか?正門に隠された攻防の仕組み

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大手門はなぜ「追手門」と書くのか?正門に隠された攻防の仕組み

城の正門には、2つの顔がある

城を訪れたとき、最初にくぐるのが大手門です。堂々とした姿は城の威厳を示す「顔」そのもの。しかし、この門にはもう一つの顔がありました。それは、敵を迎え撃つ「最前線」としての役割です。

この記事では、大手門の定義や語源から、枡形(ますがた)や櫓門(やぐらもん)との組み合わせによる防御の仕組み、そして実際に見に行ける現存する大手門まで解説します。

大手門とは

姫路城の大手門を正面から見た木造の門と石垣をくぐる人々

大手門(おおてもん)は、城郭の正門にあたる門です。本丸や二の丸といった主要な曲輪(くるわ)へ通じる、最も格式の高い出入り口として設けられました。

語源は「追手門」

大手門は、もともと「追手門(おうてもん)」と書きました。「追手」とは敵を追い詰める方向を意味します。

籠城戦において、城は裏門(搦手門)から兵を出し、正面の追手門に敵を追い込んで攻撃するという戦術を取りました。つまり追手門は、敵を正面に寄せ付けて戦闘を集中させる場所でした。

現在でも高知城や大和郡山城では「追手門」の表記が残っており、この戦術的な意味を今に伝えています。

大手門の2つの役割

大手門には、相反する2つの役割がありました。

城の顔としての役割

大手門は城への正式な入口であり、訪問者や使者を迎える場所でした。城主の威厳を示す象徴でもあり、堂々とした外観や美しい装飾が施されることも多くありました。

江戸時代になると戦がなくなり、大手門は権威を示す象徴としての意味合いがより強くなっていきます。

防御拠点としての役割

一方で、大手門は城を守る上で最も重要な防御拠点でもありました。敵が攻めてくるなら、まずこの正門を突破しなければなりません。

そのため大手門の周囲には、敵の侵入を防ぐためのさまざまな仕掛けが施されていました。枡形、櫓門、橋といった構造物が組み合わされ、大手門を中心とした防御システムが形成されていました。

大手門を守る仕組み

大手門の周辺には、敵の侵入を阻むための構造物が配置されていました。

城門の種類

大手門を構成する門には、主に以下の種類があります。

大手門を構成する主な城門
門の種類特徴
櫓門(やぐらもん)門の上に櫓を載せた二階建ての門。武士や弓兵を配置でき、最も格式が高い
高麗門(こうらいもん)小さな切妻屋根を持つ簡素な門。枡形の外側に設置されることが多い

多くの城では、外側に高麗門、内側に櫓門という組み合わせで大手門が構成されていました。

枡形(ますがた)

枡形は、石垣や土塀で四方を囲んだ方形の空間です。大手門をくぐった敵は、この枡形に入り込むことになります。

枡形に入ると直進できず、90度曲がって次の門に向かわなければなりません。その間、周囲の石垣や櫓から攻撃を受けることになります。敵の進路を制限し、集中攻撃を浴びせるための巧みな仕掛けでした。

大手門の手前には、堀を渡るための橋が架けられていることが多くあります。城の周囲に堀を巡らせ、橋を唯一の通路とすることで、敵の進入経路を限定する役割がありました。

橋には土で築いた土橋と、石で築いた石橋があります。土橋は建設コストが安く施工も容易なため多くの城で採用されました。石橋は耐久性に優れ、敵の攻撃にも強いという利点があります。

大阪城で見る大手門の防御システム

大阪城の外堀に沿う石垣と櫓が水面に映る城郭の景観

大阪城には、大手門を中心とした防御システムが現在も残っています。実際に歩いてみると、その仕組みを体感できます。

まず、堀に架かる橋を渡って大手門へ向かいます。

大阪城の大手門へ伸びる石畳の参道と左右に続く松並木

橋を渡ると、大手門(高麗門)が見えてきます。

大阪城の白壁と黒い門柱が映える大手門と石畳の参道

大手門をくぐると、すぐに枡形に入ります。石垣に囲まれた空間で、直進することはできません。

白壁の櫓門に続く枡形の広場と黒い門が見える内側の空間

枡形を抜けた先には、堂々とした櫓門がそびえています。これをくぐって、ようやく城内へ入ることができます。

黒い板張りの櫓門と白壁の上屋根を見上げる近景

このように、橋→高麗門→枡形→櫓門という構成で、敵の侵入を何重にも阻む仕組みになっていました。

大手門の歴史

大手門の発展は、日本の城郭の歴史と密接に関係しています。

戦国時代に入ると、合戦が頻繁に行われるようになり、城郭の防御力が重視されるようになりました。この時代から、大手門も敵の侵入を防ぐための重要な構造物として発展していきます。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、石垣や枡形虎口を伴う本格的な大手門が完成します。この時代に築かれた城郭の大手門が、現在私たちが目にする「日本の城の門」のイメージの原型となっています。

江戸時代には徳川幕府による全国統一が進み、城郭の建設が盛んに行われました。戦がなくなったこの時代、大手門は防御拠点としてだけでなく、城主の権威を示す象徴としての役割も強まっていきます。

明治維新以降、廃城令によって多くの城郭が取り壊され、大手門も多くが失われました。しかし近年では、城郭の保存・復元の動きが活発化しており、大手門の姿を見ることができる城も増えています。

現存する大手門を見に行こう

高知城の大手門と松の木石碑案内板が並ぶ門前の景色

現在も当時の姿を残す大手門を持つ城があります。城巡りの際には、ぜひ大手門にも注目してみてください。

現存する大手門と見どころ
城名特徴
大阪城枡形と櫓門の組み合わせが見事。防御システムを体感できる
姫路城複雑な枡形虎口が特徴。世界遺産
高知城「追手門」の表記が残る。国の重要文化財
二条城東大手門は豪華な装飾が見どころ
江戸城大手門は皇居東御苑の入口として現存

まとめ

大手門は、城の「顔」として訪問者を迎える正門であると同時に、敵を迎え撃つ「最前線」でもありました。「追手門」という語源が示すように、正面に敵を寄せ付けて戦闘を集中させるという戦術的な意図がありました。

大手門の真価は、枡形や櫓門、高麗門、橋といった構造物との組み合わせによって発揮されます。単体ではなく、防御システム全体として見ることで、かつての城の姿がより鮮明に浮かび上がってきます。

城を訪れる際には、天守だけでなく大手門にもぜひ注目してみてください。堂々とした門構えの裏に隠された、巧みな防御の仕組みを発見できます。

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